11月のリアル実践会の後、研究員とした会話です。
研究員とは脳の話もよくしているので
この記事を難しく感じる方も、興味を持たれる方もおられると思います。
この記事内容についての疑問・質問。
私はこう思う。といった意見も大歓迎です(*^-^*)
コメント欄もありますので、ぜひあなたのご意見をお聞かせください。
会話の元となった記事はこちらです。
承認欲求の段階説は今の時代、意味がないのではないか?!
そういえば、、、
大切にされたい!
嫌われたくない、愛されたい!
認めて欲しい!などの
承認欲求がある、ということに気づいて、その後の深堀りの仕方が分からないという方にしな軸ではよく出会います。
(承認欲求が腑に落ちないという人)
しな軸はマイナーなので、マズローの欲求段階説は、一般化し出したということなのでしょうか?
マズローの欲求段階説は、今の日本の個人に当てはめるには、大雑把過ぎますよね。
どう思います?
日本の個人については、軸のある人とばかり暮らしている(笑)ので、どうなのか難しいところですが、集団意識が強いと思うので、
「どうせ外国のものでしょ?」
的な感じかもしれないなあ、と思ったりします。
日本の個人というと、身近な人たちになっちゃうよね(^^;
では言い直して、、、
日本の個人というより、日本の社会環境、社会情勢(戦争がないという世の中)の場合、「徐々に欲求を満たしていかなければ、満たされないという不安定さ」はないので、直感にも似た欲求が明確であると、それを信じて人は進むことができる。
ということは、段階的に徐々に満たす必要はないので、段階説は成り立たないのではないかと考えている、のよ。
なるほど。
内戦の続くところでもなければ「段階的に満たす必要がある。」ということはない。
ということでしょうかね。
そうです。
今の日本からみると、ジャングルや戦争の話はファンタジーというか、フィクションや実験室内の話のようで、現実味がないですね。
私は確かにピンとこないです。
これの中で、ジャングルのDが親友といるというのを読んで、ふと思ったのですが、
結局、根底は、所属で安心したあと、次は個人として特定されたい。
個として分離されたい。
ということなんだと捉えました。
その手段として、承認がある気がしました。
であれば「大切にされたい。」
という承認欲求は、そこで止まれば、当然ぐるぐるする。
アイメッセージをつくるなり、対話で自己認識、自他分離し、具体的な私、になることでしか、仕組み上満たされない。
ということなんかな、と思うのですが、いかがでしょうか?
そしてその「具体的な私」を表す欲求は、「大切にされたい」という名前のついていない、空っぽのガラス瓶のような欲求でははない、、、
そんな気がするのですが、、、。
(伝わってます?)
承認欲求というラベル付け
例えば、瓶のラベルに「大切にされたい!」
と書いてあったとしても、中身はそれぞれ違うものが入っている、、、
ということを、軸対話を実践していると分かる。
ということだよね。
そして瓶の中身をよ〜く見ると「大切にされたい!」というネーミングは違うかもしれない、、
とも考えられる。
そうです^_^!
子供のラベルについても、そう思います。
私はいくらでも待てるし、人は変化し続けるのが常態だし、子供は無意識と一体なので、大自然と向き合う感じでいます。
軸対話実践者の子育ては、子どもの行動を観察するにしても、なんとなく瓶わけはするけれど、そこのラベルのネーミングを決定することを、後回しにできるような心の余裕のある子育てをしてるよね。
一般的には、ネーミングを早くつけたくてしょうがない。
ネーミングがつくと、相手や自分を理解したかのような錯覚に陥る。
それが『承認欲求』というネーミングかな。
と。
承認欲求という新しい脳理解では、本当の欲求はわからない?!
正に「 理解 = 新しい脳 」で把握する世界ですよね。
無意識は感じるものであって、理解するものじゃないし、過去の一瞬を凍結したデータを分析しても、生き物は捕らえられないと思います。
承認欲求で止まってしまって、奥に入っていかないのは、新しい脳が忙しい過ぎて、自分を感じるという部分が抜けてしまうからかなあ、という気がしてきました。
自分を感じるということが大切だよね。
「欲求は何?」とよく聞かれるけれど、本当の欲求は “ 感じる ” もの。
そして、気づいた時に “ 安堵の表情 ” がある。
話しているときに、自らの言葉にモヤモヤすることや、首をかしげることがない。
「大切にされたい!」欲求があるんだと思った、、
といった人たちの表情には納得感がない。
納得感がないものは、新しい脳が把握したに過ぎないんだよね。
「大切にされる」という言葉には、意味付けが入っていますよね。
とある行動や現象が、自分を大切にしないものだったと勝手に判断している。
「食べたらお腹いっぱいになる」とは違う、正に新しい脳の世界ですよね。
自己実現と承認欲求との違和感は軸対話で解決できる
私はこの承認欲求は『他との違いの認識や、自分をフラットに受け止める』でよくて、
このサイトにあるような「優越や自己肯定」「自信」などは、違和感があります。
行き過ぎた承認欲求は、支配欲につながり、正しさの取り合いにつながると思いました。
正に軸対話の活躍する場所やなあ、とようやく繋がりました(^^)
直感にも似た欲求が明確であると、それを信じて人は進む。
これは正に自己実現への行動だけれど、その行動力は「自己肯定感」や「自己尊重感」や「承認欲求」というものが満たされていなくても、直感にも似た欲求が明確な場合は、突き進むことができる。
「どうせ私はダメなやつ」と思っていても、
そこをいじらなくても、直感にも似た欲求にたどり着くことはできて、それをナビとして行動することはでき、行動することでどんどん進む、ということでしょうか?
そうです。
私がふと気になるのは「私はダメなやつ」「私を認めてよ」という時、それは本当に承認欲求なのか?
幼い頃に親にダメ出しを言われ続けると、それは「安心や生存の欲求」にならないのか?
ということです。
その段階だと、直感にも似た欲求は、かなり道をふさがれやすいのだろうなあと。
親は子どもが、社会に出た時に困らないように言う言葉の数々で、子どもを矯正しようとする。
しかしこの時の子どもの「行動」や「言動」は、『純粋な欲求』である可能性が多い。
正にそう思います。
子供は本当に純粋な欲求を口にしていると思います。
親はカッカして聞けていないけど、その合間にもたくさんまともに欲求を口走っていて、あとから拾うと、いくらでも対話をやり直せるくらいのことは、言ってくれてたりします。
大人はフィルターがきつ過ぎて、口答えやら反抗に聞こえてしまっている。。。
その直感にも似た欲求を、子ども自身が感じることなく、ダメ出しをされ、生きるために我慢することになると、安心や生存と引き換えに、自分が分からなくなるというオマケがつく。
不味いよね。
だから過去は、丁寧に振り返る必要がある。
親や友達からのダメ出しされた場面を通り過ぎて、自分の奥を見てあげないと、自分のことはいつまでも分からない、、
要は「直感にも似た欲求が、いつまでも分からない」ということが起きる。
いつまでも経っても新しい脳に頼る子育てをしていると、貴重な人財が育たないということが起きるということに、なぜ気づけないのだろうね。
↑大人は、自分の「新しい脳で見た延長線上の未来」しか見てなくて、そこに、子供を当てはめるためには、意識の世界に強制して、型にはめてきたと思います。
自分のイメージを、人というコマを使って、実現しようとしてきたというか。。
感じるって、教えられないから、教育者は想像つかない人が多いかも知れないなあと思います。
だからずっと、新しい脳に働きかけることをもっぱらやってきたし、それがなくなったらやることがなくなってしまい、「優しい心を持ちなさい」と、感じ方を喉が枯れるまで命令したりする。。。
自分もかつてはやってましたが。
軸対話に来ている方は違和感が苦しくて、やはり脱出したいんだと思います。
脱出できない、仕方ないと私も昔は思っていたのですが、諦めきれませんでした(^^)
今は「自分がそう感じることは仕方ないやん」が出発点で、相手がそう感じることも仕方なくて、それが出発点で、そこから対話がはじまる、ので積極的な仕方ない、になりました。
自分自身のスッキリ感に向けて「諦めきれない何か!」に気づけるからこそであった「しな軸メソッド」とも言えますね。
「グルグルする」と言っている言葉には承認欲求に気づいています。気づいたその奥を深く探ろうとする研究員さんたちには頭が下がります。それは未来ある子どもたちのためにもなると考えているからです。
>所属で安心したあと、次は個人として特定されたい。
個として分離されたい。
ということなんだと捉えました。
その手段として、承認がある気がしました。
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ここすごくしっくり来ました!!!
一般的に言われる承認欲求は、「凄い!素晴らしい!自分は出来る!」と言葉で盛り上げていく(無理矢理な^^;)感じがしていました。私はそこに違和感がありましたね。
今は個として分離し、自己を明確にしていく事で欲求を満たす行動を取るから自己実現する。と言う流れがしっくり来ます。こんな単純で良いのになぁ〜♪